和田椰子

幕末明治史热爱 / 松菊先生/ 政友会二代总裁 / 明治长州 / 伊藤系 / 桂园时代

摘自《陶庵随笔》国木田独步的编者语《陶庵侯に就て》

其中关于陆奥的一段

死之前还要担心墓碑上的文字,遗言叮嘱好具体写哪些字……真的是很陆奥了ww


伊藤侯の他に、政治上に於ける侯の提携者を求むれば故陸奥伯である。十三年に仏国から帰った時陸奥は未だ獄窓に呻吟して居た。彼が獄から出るや、侯は之を訪うて大に快談を試みたが、其は寧ろ放言高談した迄で決して真面目に政治上の経綸を語ったという程には至らなかった。十八年侯が墺国公使としてウインナに駐在せる時、恰度陸奥が欧州へ来て、今度は互に治国平天下のじみな処を語り合たらしい、二人の交際は其の後益々親密を加え、陸奥逝去の電報が時の外相大隈伯から侯の許に飛だ時は侯恰も例の盲腸炎で将に帰国の船に乗らんとする間際であった。兼ねて期したる事とは言え、侯自身も亦た生死の難病に犯されて居る際であるから、此電報を見て侯は無限の悲痛に打たれたということである。

陸奥伯が侯を以て第一の高人と評した事がある。即ち伯の侯に服した点は一方には学あり略あり乍ら一方には持て生れた高貴の品性ある事である。侯に尤も親しき友人が侯の尤も嫌いな者は策士偽善家御用商人の類なりと評したが其実侯自身決して策のない人ではない、唯だ之を卑陋なる目的の為に用いない計りである。陸奥の服したのは即ち此点である。其処で侯は陸奥の奇才に服し陸奥は侯の品性を推し以て藩閥以外一地歩を抜いたのである。嘗て侯と陸奥雑談の際、侯は吾輩は相手が意地悪く出れば此方も其積りで真直には出たくなくなる、又た怒れば生意気だと反抗してやりたくなると語るや、陸奥は、其れだから甘く行かない吾輩は決して其なことは為ないと言った。此は二個の外交家の談話と見て宜しい。侯は今日と雖も人に語て、成程かかる心がけは陸奥の長所であったと誉めている。陸奥伯将に逝かんとするや、遺言して其墓碑には伯爵陸奥宗光と書し其文字は西園寺侯に依頼せよと云った。其通りにして高野山に其碑は立て居るそうである。


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