和田椰子

幕末明治史热爱 / 松菊先生/ 政友会二代总裁 / 明治长州 / 伊藤系 / 桂园时代

【搬家】『明治人のお葬式』的一些录入,木户桑的葬式相关

五月二十一日『横浜毎日新聞』より
木戸公の御病気は漸々にさし重らるるより、辱くも主上には殊の外に叡慮し悩ませ給い、この程電信にて東京医学校日耳曼教師シルツ氏をお招ぎになり、佐藤進先生と共に昼夜その病床にありて治療の考案を運らさせらるる由。併し同公の病源は胃中に腫物の如きものを生じて、その為めに腸胃の働きを失いしとかにて、二三日以前にも余程下血されし由の風聞なるが、何卒一日も早く御快気に趣かせらるるよう致したきことならずや。

六月一日『東京日日新聞』より
導師は西本願寺の門主大教正大谷光尊師にて、正午十二時島地黙雷、大洲鉄然、赤松連城その他の僧侶五十人余、柩を堤町の旅館に迎う。

六月五日『東京日日新聞』より
当日早朝より伊藤参議をはじめ山口より出られたる勅奏官は何れも堤町の旅館に集りて葬事を幹し、その他三条、大久保、大木、西郷、佐々木の諸公より在西京の勅奏官は悉く総出にて来会せらる。旅館の門外は数十丁の間は巡査が警衛し、門内の右の方には幕を打廻して出入り町人並に供待の所とし、玄関の右にも仮屋を立て名刺を受取る所とす。さてまた奥には座敷より仮屋を立て出し、その正面に棺を据え、未亡人、岡部氏令娘何某、並に岡部氏の妹、その他の婦人(誰なるを知らず)一人棺の右に坐す。
やがて午前第一時頃、大教正大谷光尊法主は大導師として島地黙雷、大洲鉄然、赤松連城、香川葆光の諸法師をはじめ、三十人の結衆僧並に六弟子その他葬儀に関する僧会行事二人、葬儀掛六人、墓香爐二人、墓香箱二人、執綱二人、執蓋三人、典燭四人以上五十七人の僧侶を率い(法主は馬車、その他は悉く人力車にて車夫は揃の半纏を着せたり)て旅館に至る。この時伊藤参議は玄関に迎え庭上に設けたる休息所に就く。
やがて導師棺前に進んて焼香し読経を始む。程なく勅使として鍋島侍従、両皇后の御使として香川宮内大丞並に閑院宮御同道にて入来あり。直に焼香済み、それより親族親友をはじめとして大臣以下勅奏官順に焼香あり、畢て正午十二時出棺す。この時儀仗兵は整列して門外に迎う。
その行列には真先に二本の高張を立て京都府八等属山根直吉郎騎馬にて前導し、十等警部梨羽素助、入江長祐同じく騎馬にて巡査五十名を率いこれに次ぐ。それより高張、次に先徒士重川久兵衛、生咲政次郎、次に高張、次に儀仗兵半小隊、次に導師大谷光尊法主は馬車にて右に執綱二人、左に執蓋三人、後に六弟子を率う。次に高張、次に典礼一人づつ、結衆十五人づつ、左右二行に相従う。次に徒士小林綾造、桜井虎次郎、次に島地黙雷、大洲鉄然、赤松連城、香川葆光何れも従者一人づつを率う。次に白丁二人、次に僧二人づつ左右に香爐を捧げ、次に高張、次に山田寿一剣を持つ。次に棺徒士田中貞介、岡村又太郎その先に立ち福住定三郎、広戸直造その後に従い、白丁四十人これを舁ぎ、儀仗隊その左右に引添う。
次は葬主にて徒士入江宗作、佐々木正兵衛の二人を従え、次に親族(馬車)、次に親友(馬車・騎馬)、次に高張、それより三条、大久保、大木、徳大寺、西郷の諸公より在西京の勅奏官、麝香間詰の華族方何れも馬車、人力車にて見送らる。次に儀仗兵その後を押う。道筋は河原町より四条を経て祇園石壇下より南へ鳥居前を東へ、それより南して高台寺総門に至る。

六月六日『東京日日新聞』より
この日、京都府中の区戸長も残らず葬送に従い、拝見人は市街に充満して立錐の地も無く、行列は凡そ五六丁余も続きて、実に人臣にしてかかる大葬は前代未聞の事にて、また以て公の徳を見るに足るべし。

另外存两张图




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